仏教なるほどゼミナール「慈悲」
ああ、僕の弁当を落としてしまった〜。
ありゃ〜、こりゃもう食べれないね。お昼は我慢しな。
かわいそうに。私のお弁当、少しわけてあげるわ。
私も、おかずを少し、あげるわ。
み、みんな、なんてお慈悲な方々なんじゃ〜。
あん?慈悲って何?
そのおかず、自分でお金を払って食べるんだよ。
自費とでも言いたいのか?
うーん、優しいおじいさんとか見て『慈悲深い人だ』と言うのを聞くわ。
つまり、叱られることもなく、お小遣いもくれる人のことを言うのかな。
ちょっとそれは違うんじゃないの?
あっ、先生。
慈悲については、曇鸞大師が『苦を抜くを慈といい、楽を与うるを悲という』と教えられた。
ドンランダイシ?
ほら、昔、中国で仏教を伝えられた方よ。
よく覚えていたね。その曇鸞大師が言われた通り、慈悲とは『抜苦与楽』のことなんだね。
バックヨラク?んもー、今日は難しい言葉がたくさん出てくるなあ。
ははは、じゃあ詳しく説明しようね。慈悲の慈とは、抜苦、つまり他人の苦しみを見ていることができないで、何とか苦痛をなくしてやろうとする心のことを言う。慈悲の悲とは、与楽、つまり楽を与えて一緒に喜びたいという心を言うんだ。
ふうん。
たとえば、子供が病気で苦しんでいる時、その親は一刻も早く苦しみを取り除いてやりたいと、一生懸命看病したり、病院につれていったりする、これは親の慈の心だね。
また、どこか面白いところに連れていったり、子供の好きなものを買ってきたりするのは、喜ばせてやりたいという、親の悲の心からすることだね。
この前、ディズニーランドにつれていってくれたの。
僕は回転寿司屋。たらふく食べれてよかったよ。
これは親のことだけではない。「可哀相だ」「何とかしてあげたい」という心は、みんなにもあるだろう?
友達が病気で学校を休んだりすると、お見舞いに行ったりすることかな。
飢饉や戦争で難民が何万人も出たと聞くと、かわいそう、何かできることはないか、と思いますよね。
そうだね。その慈悲の心、大切なことだからね。でもね、どんなに「かわいそうだ」と思っても、時間がたつと忘れてしまうだろう。また、好きな人には優しくできても、嫌な人にはなかなか優しくできなかったり、どうしてもえこひいきや差別する心がおきてくる。はたまた、自分では「何とかしてあげたい」と、よかれと思ってしたことでも、かえって相手が迷惑することだってある。
うーん、優しくするのもよく考えてしなきゃいけないのかな。
だから、人間の慈悲は慈悲でも、小慈悲と言われるんだ。みんな、慈悲の心を、忘れてしまったり、はたまた差別してしまったりすることはないかな?。
そういえば……。
反省させられることがあるわ。
それに対して、観無量寿経というお経に『仏心とは大慈悲これなり』と教えられているように、仏さまの慈悲は「大慈悲」と言われるんだ。仏教は、慈悲の教え、抜苦与楽の教えと言われる。私たちの苦しみ悩みの根元を抜き、最高無上の絶対の幸福にして下されるのが、阿弥陀仏の大慈悲のお働きなんだね。
へえ、そうだったのか。
そうだよ。だからみんな、仏教をしっかり学んでゆこうね。
はい、分かりました。
よし。しかし、まずは、弁当弁当。腹が減ってはなんとかだ。な、タツキ君。
みんなのお慈悲で、午後も勉強がんばれるよ。
何がおきても、元気な人たちね……。
(おわり)
仏教なるほどゼミナール
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