仏教なるほどゼミナール「檀那」

スーパーの買い物にて。
イチロの母「さてと、今日の晩ご飯は……と」
イチロ「お母さん、冬はやっぱり、あつあつの鍋にしようよ。ほら、ベニズワイガニ!」
イチロの母「ちょっと、我が家の家計を考えなさいよ!」
ナオキの母「まあ、イチロー君のお母さんじゃありませんか」
イチロの母「あら、これはナオキ君のお母さん」
ナオキの母「夕食のお買い物ですか?」
イチロの母「ええ、今夜は魚料理が食べたいと檀那が言うもんですから……」
ナオキの母「まあまあ、それは。うちの檀那なんて、無口でブスッとしているのが男だと思っているみたいで、何が食べたいのかも言わないのですの」
イチロの母「それは、さぞお困りでしょう」
イチロ「ダンナ? ダンナって、ナンダ?」
ヒカリ「ふふっ。妻が夫のことを指して言う言葉なのよ。これ常識」
イチロ「おっと、ヒカリか。お前もいたのか」
タツキ「でもさあ、店で働く人が、店主のことを「だんなさま」って言うことがあるよね」
ナオキ「そうそう。時代劇なんかでよく見るよね。「およびでございますか、ダンナさま」とか」
イチロ「ふーん。店の主人がダンナさまなんだ」
マサコ「でも、店の人がお客さんのことを呼ぶ時にも使われるわよね。「だんな、安くしておきますぜ」ってね」
イチロ「店の人も、お客も、両方ダンナなの? もう訳がわからなくなってきたー」
先生「ははは。ともかく、言えることは目上の男性に使う例が多いということかな」
イチロ「あっ、先生」
タツキ「つまり、偉い人を呼ぶ時に使うのでしょ」
マサコ「そうかしら?」
先生「ふむ。そもそも、檀那は昔のインドの言葉「ダーナ」から来ている。
ヒカリ「ダーナがダンナになったのですね」
先生「ダーナとは、布施の行のことだ
イチロ「布施?」
ヒカリ「布施については、以前このゼミナールで勉強しましたよね」
タツキ「恩を受けた人や、困っている人などにお金や物を施すこと、とお釈迦さまが教えておられるんだ」
先生「つまり、親切をすることだね」
イチロ「親切することを、ダーナと言ったのか」
先生「そうなのだけど、いつのまにか「布施をする人」の意味も含むようになったんだね」
イチロ「ふーん、なるほど。確かに、店の人は客からお金をもらうし、妻は夫の給料で生活をするからなあ」
マサコ「その逆の夫婦関係もあるけどね」
先生「檀那寺、という言葉もある。寺は門徒の布施によって生活をすることから、そう言われるそうだね。
 ともあれ、どれだけ良い格好をしていて、財産がたくさんあっても、布施の心がなければ、本当の意味での「檀那」ではないよね」
イチロ「偉いだけではダメなのか」
ヒカリ「親切心があってこそ、檀那なのね」
先生「そうそう。相手に喜んでほしい、幸せになってほしいと願う心が大切だよ。布施は、量の大小ではなく、その精神が大事なんだ」
タツキ「しかし、僕たちは誰かに施せるほどお金や物を持っていませんが、どうすればいいのでしょう?」
先生「そんな人でもできる布施を、お釈迦さまはたくさん教えて下さっているよ。優しい言葉をかける、重たい荷物をもってあげる、はたまた席を譲る……などなど」
ナオキ「ふーん、心がけ次第で、できることばかりですね」
先生「にこやかな笑顔で人に接することも、布施の一つなんだよ」
タツキ「まさに、お釈迦さまが教えられる、和顔愛語の布施行ですね」
ナオキの母「無口で表情一つ変えずに、ムスッとしている人なんて、檀那とは言えませんわね、これでは」
ナオキの父「なんだね、私のことかね」
イチロ「うわわっ。今度はナオキ君のお父さんが登場だ!」
ナオキの父「はっはっは。みんな、元気かな。今日から私は、檀那の中の檀那と生まれ変わるのだよ」
ナオキ「いきなり変わると、ちょっと抵抗あるなー」
先生「ま、男女を問わず、みんなが布施の心を持つことが大切だからね。心がけよう」
(おわり)

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