仏教なるほどゼミナール「除夜の鐘(煩悩)」

寺の息子のヒロシ君が、静かに座禅をしている。
ヒロシ「人間には、108の煩悩があると教えられる。これを静めて、安らかな心になるのだ……」
「ゴーン!ゴーン!(鐘の音)」
ヒロシ「わわっ、な、なんだ?」
イチロ「いえーい。みんなで除夜の鐘をつきにきたよ。それーっ」
ヒロシ「がーっ、うるさーい!なんなんだ、君たちは!」
タツキ「あ、なんだヒロシ君じゃん。そうか、君って、寺の息子だったもんね」
ヒロシ「そう。いま、煩悩を静めようと、仏道修行中なのだ」
イチロ「煩悩?ああ、そんなことしなくていいよ。除夜の鐘を鳴らすと、108の煩悩はなくなっちゃうんだって」
ヒロシ「う、うそだー!」
イチロ「だから除夜の鐘は108回も打つんでしょ」
ヒカリ「まあ、そんないわれがあるそうだわね」
ナオキ「そんなんで、本当に無くなるの?」
タツキ「そもそも、ボンノウって、何?」
ヒロシ「え、えーっと、それは……」
先生「煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるものを言うんだ」
ヒカリ「あっ、先生」
マサコ「私たち、一人一人に108の煩悩があるのですね」
先生「で、108の中でも特に悩ませるやなものが三つある。これを三毒の煩悩と言われる。その三つとは、貪欲、瞋恚、愚痴の三つだったね」
ナオキ「トンヨク?」
先生「三毒の煩悩の一つ目、貪欲とは、欲の心のことだ。なければないで欲しい、あればあったでもっと欲しいという心だね」
ヒロシ「あー、腹へったー」
イチロ「それ、食欲だね」
先生「欲が邪魔されたり、満たされなかったら、出てくるのが瞋恚の心だ」
ヒカリ「怒りの心ですね」
先生「怒という字は、心の上に奴と書く。あの奴め、この奴め、と心の中で人を切り刻む、おそろしい心なんだね」
イチロ「ヒロシ君、さっき怒ってたね、うるさーいって」
ヒロシ「いいじゃないか。くそーっ!(怒ってる)」
先生「そして愚痴とは、ウラミ、ネタミの心のことだ。愚はおろか、痴もやまいだれに知と書くように、知恵が入院しているという字だ。仏教の根幹である、因果の道理が分からずに、勝るをねたみ、劣る者を見下げる心なんだね」
ヒロシ「なんで僕がこんな目にあわなきゃならないんだ……ぶつぶつ」
イチロ「あ、愚痴言ってる」
先生「この三毒の煩悩に、疑、慢、悪見の三つを加えて、六大煩悩と教えられている。疑とは、人や物を疑う心。慢とは、うぬぼれ心のことだ。悪見とは、物事を曲がってみる心をいうのだね」
イチロ「ヒロシ君、ぜんぜん煩悩が静まってないじゃん」
ヒロシ「うるさーい。ほっといてくれ!」
マサコ「だから鐘を108回、打ちなさいよ。ほら」
ヒロシ「それで煩悩が無くなったら、誰も苦労はしないよ。いいかい、そんなことで煩悩はなくなりもしなければ減りもしない。だから、私たち人間を、煩悩具足の凡夫、と教えられるんだ」
イチロ「ボンノーグソク?」
先生「おお、よく知っているね。「具足」とは、それによってできているということ。雪だるまは雪からできているように、煩悩によってできているのが人間だということなんだ。今まで、煩悩を何とかなくそう減らそうとして、厳しく苦しい修行をする人は多くあったが、煩悩具足の私たちには、それはかなわぬ話なんだ」
ヒカリ「煩悩から離れられないのですね」
イチロ「ヒロシ君、よく分かってるじゃん」
ヒロシ「ぐっ……、で、ではおいらはどうすればいいんだ?」
先生「うむ。この煩悩あるがままで、本当の幸せの身になれるんだ。そう教えられたのが、お釈迦さまであり、親鸞聖人なんだね」
ヒロシ「へえ、知らなかった」
先生「さあ、いよいよ新たな年が始まる。みんな、しっかり仏教を勉強していこうね」
イチロ「はい、分かりました」
ヒカリ「ということで、景気付けに年越しそばを用意しました。みんなで食べましょう」
イチロ「わーい」
ヒロシ「うひょひょ〜。もう、お腹が減って減ってたまんないよ〜。いただきまーす」
ヒカリ「本当にさっきまで修行してたのかしら?」
(おわり)

仏教なるほどゼミナール